カフェdeセコイア
薄藍色の罫線には空白のマス目が広がっている。エンドレスに思える連なりは二行目から始まり、先へ先へと続く。一行目には下手くそな筆跡で記された表題があり、そこには『カフェdeセコイア』とあった。
「ああ駄目だ。どうしても書けない」
僕のような三流小説家にはどだい無理な世界だったんだ。受賞した賞だって中の下くらいのものだし。出版された本だって全然売れなかった。一月経っても二月経っても、半年経ってもまったく同じだった。三年が過ぎた今でも、まるで存在すらしていないかのように、僕に齎したのは失望感だけだった。
「あーあ、やっぱり才能がないのかなあ」
僕に二作目はなかった。最近では出版社からの電話やメールすらきやしない。僕は取り残される一方通行だった。
そんな僕の失望とは裏腹に、窓から差し込む日差しはとても優しそうだった。カーテンの何ともいえない、もっさりとした動きに光と影が動いている。その先の温もりを感じたくて、僕は手を伸ばしてみる。少しだけカーテンをめくると、強い日差しが一気に差し込んできた。一瞬目が眩む。でも、頬に当たる日光はやっぱり優しい。
光に目が慣れた頃を見計らって薄目を開けると、向かいの屋根の上で眠りこけている野良猫が目に入った。
「いいなあ、気持ち良さそうで」
思わず声に出して言ってしまった。だってトタン屋根の上で眠る三毛猫は、この上なく気持ち良さそうだったから。
ああ、これではいけない。こんな暢気に構えていたらまた同じ日々の繰り返しになってしまう。いくらなんでもこのまま終わったんじゃ悲しすぎる。気持ち良さそうに眠る野良猫を見て、何だかそんな気持ちになった。
それならばと、新たな気持ちで賞に応募しようと決めてみる。今度は中の下ではなく、上の中くらいの賞にしようと。
でも書けない。タイトルしか決まらない。いや、構想はいくらでもある。それが言葉になってに出てこないだけ。頭の中では物語はスタートし、各々が生活を始め、会話を交わし、楽しくやっている。でもそれが僕の体を巡り喉元までやってくると、途端に引っ込み思案になってしまう。原稿用紙を前に万年筆なんかを持った日には、殻に閉じこもって絶対に出てきてくれない。ここ四日そんな日が続いている。
「やっぱり今日も難しいなあ」
優しい日差しとは裏腹に、僕の心は焦燥感と失望感に満たされていた。
「あー、駄目だ駄目だ。これじゃあいつもと変わらない」
僕は原稿用紙と万年筆を愛用の擦れたショルダーに放り込み、行き付けの『セコイア』へと逃げ込む準備をして家を出た。少しでも気分を変えればという安易な解決策にすがったのだ。でもこの方法はたまにしか成功しない。それでも僕にとってあそこは居心地が良い場所だった。目立たない裏通りで見つけて以来、かれこれ二年は通い続けている。
数年前に駅周辺は再開発され、すっかり様変わりしていた。最近では情報雑誌の特集や、テレビに取り上げられる機会も多くなった。今流行の街である。でもその代償はあった。それは昔の面影がどこにもなくなってしまったことだ。
それでも、一本裏通りへ入るとまだまだ長閑さの匂いが残っている。剥がれかけたコールタールの壁を相手にキャッチボールをしている小学生の姿を見るのも、ここらでは珍しくない。軒先に出された縁台には、夕涼みともなると近所の顔見知りでいっぱいになる。打ち水をされたアスファルトがキラキラと反射して、その景色に「わるくない!」と感嘆の声が漏れてしまう。そんな愛すべき昔が裏通りには残っていた。
そこをさらに先へ進むと、いくつかの商店がのれんを下げている。蕎麦屋に和菓子店、それに小さなゲームセンターとクリーニング店、そして本屋が続き、その先に『カフェdeセコイア』があった。
渋く深みのあるこげ茶色の木造に、レンガ色の屋根が少しだけ高く尖っている。くすんだ漆喰の壁が情緒を醸し出し、中に入ってみたいという気にさせる店構え。
大人が手を広げたほどの一枚板に、白いペンキで乱雑に書かれた店の名は、この地での歴史を感じさせてくれる。
店からは焙煎された豆の薫りと淹れたての珈琲の香りが混ざり合い、鼻腔を刺激し口の中に唾を溜める。
それでもなかなか一見客は扉を開けない。決して入りにくい店構えでもなければ、汚らしいわけでもない。肝心要の珈琲の味も、プロと呼ぶに申し分のない美味さである。ただ駅前にあるチェーン店のステイタスにしか、一見客は興味を示さないだけなのだ。
それでもマスターは別段困った様子もなく、自分流の『カフェdeセコイア』を今日もオープンする。大繁盛しているわけではないが、固定客はそれなりに多くいた。みなそれぞれの理由があるにせよ、足繁く通ってくる固定客で充実している。
「マスターおはよ、いつものね」
奥の席に座り込み、ショルダーを開いて原稿用紙と万年筆を取り出した。
「木本さん、もうお昼ですよ」
マスターがカウンター奥から笑った。
「えっ、ああほんとだ。徹夜したから頭が働かなくて。どうりで野良が気持ち良さそうに屋根で寝てたわけだ」
木本は頭を掻いた。
「野良って猫ですか」
「そうそう。部屋のカーテン開けたらさ、向かいの家の屋根で気持ち良さそうにね。ひとが一行だって書けないで苦しんでいるっていうのに、暢気な奴めって思ったんだけどね」「それはそれは」
「でもそれを見て決心したよ。今度こそちゃんと書き上げて、出版社じゃなく賞に出してみるつもりなんだ。それも名の知れた賞にね」
「それは良かった。是非書き上げてくださいよ。木本さんなら本気さえ出せば、きっと賞にだって通りますよ。そうしたら私読ませてもらいますから」
フラスコで熱せられた湯が押し上げられ、中挽きされたキリマンジャロがロートの中で絡まり色を変えていく。
「マスターにそんなこと言われると、身が引き締まるよ。頑張らなくちゃな」
静かに蓋を開け、竹べらでほぐしながらゆっくりと五回掻き混ぜる。
「ところで、どんな内容の小説なんですか」
マスターは時計を見ながら聞いた。
「うん。それがね、まだ書き出せてないんだよ。例のごとくってやつでさ。それで、マスターの美味い珈琲を飲んで気分転換」
微笑むとマスターはもう一度時計を確認し、
アルコールランプの火を消した。
「木本さん寝てないって言ってましたよね」
「うん、徹夜」
「よく平気ですね。私なんかしっかり寝ないと駄目な方だから、羨ましいですよ」
「そうなんだ。あれ、マスター幾つだっけ?」
「私は今年で三十七ですよ」
「そうだそうだ。僕の二つ上なんですよね」
木本は腕組みしながら何度も頷く。店内にはいつものようにクラシックが流れている。気持ち大きめの音量は、マスターの好みの表れだ。この珈琲店ではベートーベンが主流だった。ごくたまに他のジャンルの曲も流れるが、それは月に二三度がせいぜいだった。
「はい、お待たせ。特製キリマンジャロ」
少し厚みのある藍色のカップから何ともいえない香りが広がる。立ち昇ってゆく湯気が鼻先を湿し、木本は唾を飲み込んだ。
「これこれ、この香りが堪らないんだよね」
「木本さんサイフォンがお好きですもんね」
「うん。すきすき」
「確かにドリップに比べると香りが強く出ますからね。私も好きなんですよ。味では劣るという意見もありますけどね」
「へえ、そうなんだ。僕はこれが一番美味いと思うけどな」
「もちろん人それぞれですから。自分が一番気に入る味が、美味い味なんですよ」
「そうだよね。うん、僕はこれが一番美味い。マスターこれからもこの味でよろしくね」
「承知いたしました」
ベートーベンの旋律が熱情を帯びて店内に行き渡り、珈琲の香りと絡み合う。耳と喉から嗜好を堪能した木本は満足気な顔をしていた。
「さて、マスターの美味い珈琲で頭も冴えて来たし、書き始めてみようかな。あ、そうだ。マスターに話したっけ? ほら、この原稿用紙。罫線が藍色でしょ。これね、初めてここに来た時にマスターが入れてくれた珈琲に感動してさ。珈琲ってこんなに美味かったんだって。それにこのカップの色とが妙に自分の中でマッチしちゃってさ。それで同じ色の原稿用紙を使い始めたんだよ。言ったっけ?」
「いえ、初めて聞きましたよ。そういう風に言ってもらえると私もうれしいですよ」
「うん。じゃあ、書き始めてみるよ」
そう言うと、万年筆のキャップを外した。
「どうぞ、ごゆっくり」
少し戻りかけて、マスターは振り返る。クレッシェンドしていく交響曲。それに合わせるかのように、万年筆は滑らかに滑り始めていた。
楠木さん
「おじいちゃん、どこにいるんですか。早くラッキーの散歩に行ってきてくださいよ」
うるさい嫁だわ。毎日毎日飽きもせず朝っぱらから喚きおって。お前は気にすることはないんだぞ。ワシにあたっているだけだからな。お前は悪くない。ちゃんと連れて行ってやるからな。
「おじいちゃん、お庭にいるんなら一言そう言って下さいよ。探しちゃうじゃないですか」
「おお、すまんかったの」
「もう、毎回そう言えばいいと思って。さっさと散歩に行ってください。お掃除の邪魔です」
言われなくても分かってるわい。
「ああそれと、帰ったらちゃんとラッキーの足を洗ってくださいね。変なもの付けて帰ってきたらお庭が汚れるんですから」
変なもの付けて帰るわけないじゃないか。仮に付けて帰ったとしてもだ。庭が汚れるのが何故いけない。
「おじいちゃん、分かったんですか」
「ああ」
「ああじゃないでしょ。まだ小学生の剛司だって、もっとしっかりした返事はできますよ」
「おお、すまんかったの」
「もういいです。どうせそうやっていつも私のことを馬鹿にしてるんですものね。とっとと行って下さい」
いつもいつも同じことばかり言いやがって。
「ああそれと、長い時間散歩に行ってくれるのは大歓迎ですけど、あまりお金を使わないでくださいよ。それでなくてもこの家のローンで大変なんですから。おじいちゃんにお小遣いをあげている余裕なんて本当はないんですよ。そりゃあ、ここの頭金はおじいちゃんに出していただきましたけど、それはそれ、これはこれですからね」
なにが、それはそれ、あれはあれじゃ。都合の良いことばかり言いおって。鬼嫁が。
ワシがもっと若かったらのう。あそこまで言わせはしないのに。いやせめて婆さんが生きておったら。
「なあラッキー、お前も婆さんがいなくて寂しいだろう。よしよし……ほら散歩に行こう」 ワシにはいつお迎えがくるのかのう。なあ婆さん。早くそっちへ行きたいよ。悔しいが、その方がいろいろなことが丸く収まりそうじゃよ。
だがまだこいつがおるからの。ラッキーだけ残したんじゃ可愛そうじゃ。あの嫁ではな。いっそのこと、こいつと二人してそっちへ行ってしまうかの。なあ婆さん。ワシもこいつもいい加減長く生きたよ。そろそろいいじゃろう。
「ウォン、ウォン」
どうしたラッキー。お前も賛成か。それとも、やはり婆さんは怒るかのう。
「ウォン……ウゥゥ」
なんだ。お前は発情か。
「ははは」
まだまだお前は行きたくはないか。そうかそうか。そうか、そうか。
「わかった、わかった。そんなに引っ張るんじゃない」
「あれ、楠木さんじゃないですか。おはようございます。ラッキーもおはよっ」
「やあマスター、お早いですな」
「ええ、ちょっと急用がありまして出掛けていました。今帰りです」
ネクタイを緩めながらマスターが言った。
「こらこら、ラッキー」
マスターのズボンにじゃれつこうとするラッキーを慌てて制した。
「構いませんよ。なーラッキー」
ラッキーは構わず、しゃがんだマスターの顔をなめまわしている。ワシはリードを制すのをやめた。
「すみませんのう」
「全然平気ですって。汚れたら洗うだけですよ。それより、もう散歩は終わったんですか」
「ええ、帰るところだったんですわ」
ラッキーはなおもじゃれついている。
「そうですか。今日もお寄りになります」
そう言うとスーツについた毛を払い、立ち上がった。ラッキーはまだじゃれたがっている。
「でもマスターは帰ったばかりでお疲れでしょう。ワシのことは気にせんと、ゆっくり休んでください」
「全然平気ですよ。それに戻ったら開けるつもりでいましたから。どうぞいらして下さい」
「それじゃあ、遠慮なく」
「すいませんね。適当に座っていてください。ラッキーも待っててな」
そう言うとマスターは奥に入っていった。昨日の、いやそれ以前からの積み重なった珈琲の残り香がゆるく漂っている。それは目に見えるわけではないのだが、まるで目に見えるようだった。
積み重なった残り香に、まだ新しい新鮮な香りは重なっていない。だがやがてそれは訪れる。マスターがポットに火を入れた。
やがて湯が沸く音が聞こえ出し、マスターがレコードに針を落とす。ジリジリと懐かしさの円が回り始め、音楽が静かなさざ波のように漂いだす。
マスターが挽く豆の音がし始めると、やがて新しい香りが漂いだし、それは曲に乗ってどんどん広がっていく。次第に古い香りに重なっていき、新しい層となって過去へと向かう。
そんな瞬間を老人は愛していた。そして自ら望んでその瞬間に立ち会ってもいた。
「ええもんですな。クラシックというのも。マスターのおかげですっかり聞き慣れましたわ」
「そう言ってもらえるとうれしいです。私は自分の好きなことを好きなようにここでやっているだけですので、偏ってしまっているかもしれませんけどね」
「それが良いんですよ。最近は皆、偏る前にやめてしまう。いろいろなものが山ほどあるんでしょうが。あちこちいってたんでは平たい人間しかできなくなってしまう」
「そんなものでしょうか」
「そうです。そんなもんです。ワシがええ見本ですよ。クラシックなんて眠くなるだけのもんやと思ってこの歳まできましたからね。ところがここへ来て、毎日のように聞いていたら、ワシなりに見えてきたんですからね。今では聞かせてもらう度に感動しとりますわ」
マスターは慣れた手つきで紙のフィルターに細工を施している。一連の動きが美しい。
「ラッキーのお陰かもしれませんね」
呼ばれたと思ったラッキーは、交互に二人の顔を見ている。
「そうかもしれませんな。婆さんがワシに残してくれた最高の置き土産ですわ」
マスターはラッキー専用に作られた半畳ほどのスペースに、ラッキー用のステンレス皿を置いた。
「ほんとに毎回、美味しそうにミルクをなめますよね」
「こいつにとっちゃ、マスターにもらうミルクが一番のご馳走なんですわ」
店内に流れるベートーベン最後の交響曲が、ミルクをなめる音と絶妙なハーモニーを奏でるのを聞いて、二人は噴出した。
「こいつもクラシックが好きになったようですな」
「そのようですね」
「婆さんが見たら、顔をほころばせて喜びますわ」
「楠木さんのように」
「え、ワシ? 駄目ですわ。ワシは優しい人間ではありませんから」
マスターは何も言わなかった。慰めの言葉を期待していたわけではない。実際ワシは婆さんに優しくしてやることができなかったのだから。貧しく辛い時代だった。だがそれは言い訳でしかない。婆さんとて境遇は一緒だったのだから。だがワシはそれに気づかなかった。旅行の一つ、プレゼントの一つもあげることをしなかった。後悔先に立たずじゃの。
「楠木さん、お待たせしました。オールドクロップです」
藍色のカップから立ち昇る湯気は、昇っては止まり、止まっては昇りしている。ラッキーは満足したのか、体を床にべったりとつけ眠っていた。
「マスター、頂きますわ」
「どうぞごゆっくり」
喉から体内へと運ばれた液体が落ちつくころ、香りが再び口の中へと戻ってくる。やがてそれは鼻へと抜け、外気に触れる。それはとてもゆっくりと時間をかけて繰り返される。マスターがいつも淹れてくれる、そんな味の珈琲を楠木は何よりも楽しみにしていた。
「マスター、今日も美味しいですよ」
「ありがとうございます」
「ところで、マスター」
「はい、何でしょう」
ゆっくりとオールドクロップを堪能した楠木が顔を上げた。
「マスターは、好い人はいないんですか」
「いい人……ああ、彼女のことですか。残念ながら今のところ縁がありません」
「それはもったいない。こんなに美味い珈琲を淹れるのに」
「それは恋愛にはあまり関係ないですよ」
「ははは、それはそうですな」
すっかり白くなった髪を撫でながら楠木は笑った。その笑い声にラッキーが耳をピンと立て、何事もないと分かると再び眠り始めた。
「でもマスターも早いとこ好い人見つけて、幸せにしてあげないと。ワシみたいに後で後悔せんようにね」
「楠木さんは後悔されてるんですか」
楠木は目線をカップに落とし、節だらけの指でカップの縁を何度もなぞった。
「しとりますよ。あれに……婆さんには、何一つしてやれなかったですからな。できなかったのならまだ慰みにもなるだろうが、ワシの場合はできるにも関わらず、何一つしてやらなかったんですわ」
「ほんとうに、そうなのでしょうか」
カップの縁を撫でる節だらけの指が、一瞬止まったかに見えた。
「せめて。そう、せめてあれが欲しがっていた口紅を、一つでも買ってやりたかったですわ」
それから楠木は、一言も口を開かなかった。ただただカップの縁を撫でる動作を繰り返しているだけだった。
交響曲で引き締まった店内の空気を和ますように、ピアノソナタが流れ出していた。しなやかな指を連想させるピアノ曲と、節だらけの老人の指とが、不釣合いの調和となって時間を刻んでいく。いつしか老犬はぴったりと老人に寄り添い、虚空を見つめ続けていた。
美佐さん
『カフェdeセコイア』には一度きりで来なくなる客はめったにいなかった。そういう客は最初からここの扉を開けない。二度、三度と足を運ぶうちに、すっかり虜になってしまう。それはマスターの人柄であり、スタイルであり、また、珈琲の味でもあり、それら全てでもある。
この店には決まりのようなものがある。それは何度か訪れ、マスターに顔を覚えてもらうと、直々に似顔絵を描いてもらえるのだ。ハガキ台の大きさの厚紙に、鉛筆一本で描かれた似顔絵は店内に飾られる。
それだけじゃない。いくつかの違った豆、挽き方、淹れ方などをした珈琲を飲ませてくれる。それは数回にわたり、客が納得する味に辿り着くまで続く。
そしてとうとう巡り会ったなら、その焙煎された豆を、手の平ほどの大きさの小さな額に入れ、似顔絵の下に飾ってくれるのだ。店内にはそれらがあふれている。
一度マスターに、どうしてこういうことをはじめたのかと聞いたことがある。
「いやあ、私は忘れっぽいのでこうしておくと楽なんですよ」
そう言って笑っていた。
「……って言うのは、常連の隊長さんの受売りなんだけどね」
「なんだあー美佐が聞いたんじゃないんだ」
「実は、そうでした」
「でも面白そうだね」
「ねっ。なんか良い感じでしょ」
「でもさ、隊長さんって何?」
「私も詳しくは知らないけど、カメラマンなんだよ。でも、ほんとへんなあだ名だよね。隊長ー!だもんね」
足取りは軽かった。今日は自分の似顔絵を飾ってもらえる日。四度目にしてマスターに描いてもらった自分のポートレート。六法全書を片手に眺めている私の絵。その絵を見た時、とても嬉しくもあり誇らしくもあった。
『カフェdeセコイア』を発見したのは、まったくの偶然からだった。大学を出て就職。普通に事務の仕事をこなし、たまに合コンにも顔を出す日々。漠然と、このまま結婚して子供を生んで……半ば脱力感みたいな。そんな毎日を生きていた。
特急列車の指定席に座って、あとは目的地まで何もすることなく進んでいく。そんな日常が急に嫌になっちゃって。
そんな時にテレビで見たドラマが女性弁護士物だったっていう。ただそれだけの理由で目指そうって決めて、今のところ頑張ってる。 両親には『頑張ってる』とだけ手紙で伝えた。それで行き始めたゼミで出会ったのが同じ歳の律子。私も彼女も独学だったから、お互い刺激しあったり、励ましあったりしながら二年目を迎えている。
「美佐、まだ先なの」
「うん。この路地を入っていった先」
「えー、そんなマイナーな場所にあるんだ。よく見つけたねえ」
そう。私は偶然にも見つけちゃったのだ。本当は駅前のカフェで予習をするつもりだったのに、混み合っていてとても勉強をする環境ではなかった。
それで、当てもなく何の気なしに一本裏の路地へ入っていき、ああ、何だか懐かしい風景。って思って散策していたら大きな木に書かれた『カフェdeセコイア』って文字を見つけて、これまた何の気なしに入っちゃったら、はまっちゃったのよねー。
「ほら律子、あそこよ」
「わあ、ほんとだ。雰囲気いいねえ」
「でしょ。あーなんかドキドキしてきた」
「何言ってんの。あんた何度目よ」
でもやっぱりドキドキだよ。マスターの絵すっごく上手かったし。それが飾られると思うと。
「ほら美佐、いくよ」
「いらっしゃいませ」
「お二人様ですか」
「あ、はい。ちょっと美佐何やってんのよ。あんたの行き付けのお店でしょ」
「あれ、美佐さんですか。帽子を被ってらしたので、気が付きませんでした」
「あ、マスターすいません」
慌てて帽子を脱ぐ美佐を見て、律子はクスクス笑っている。
「美佐さん、あちらに飾らせていただきました」
「え、え、もう飾ってくれてるんですか」
「はい。あちらに」
マスターが指差す方に向き直ると、そこには私のポートレートが飾られていた。恥ずかしさと嬉しさが交差する変な気持ちの中、私は慌てて近づいていった。
「どうでしょう。上手い絵ではないのでお恥ずかしいのですが、私は忘れっぽいもので」
あっ。隊長さんが言っていた通りだ。
「はい。感激です。すごく嬉しいです。ね、ね、律子」
「な、なんで私に振るのよ」
だって、恥ずかしい気もするけどやっぱり嬉しいんだもん。
「やったね美佐ちゃん。これで立派な常連の仲間入りだ」
奥のテーブルから立ち上がって手を振る人がいた。
「あ、ニートさん。来てたんですか」
「来てました。来てました。どうせ暇人のニートですから」
「あ、ごめんなさい」
「いいの、いいの。皆に呼ばれてるから。それより、常連の仲間入りおめでとう!」
「はい。ありがとうございます」
「内田さん。からかっちゃ駄目ですよ」
「マスターひどいなあ。俺は真面目なのに」
私が、ニートさんって思わず言っちゃった人は内田さんと言って、もうすぐ三十歳なのに未だに仕事に就いていない、ちょっと不思議な感じの人です。
「美佐さん、どうぞそちらへ」
「あ、マスターすみません」
「じゃあねー美佐ちゃん」
陽気に手を振るニートさん……じゃなくって内田さんの言葉が嬉しかった。私も常連になれたんだ。そんな湧き上がる思いを噛み締めながら私たちはカウンター席についた。
「マスター、ほんとにありがとうございます。飾っていただいて。嬉しいです」
「お礼を言うのは私の方ですよ。何度も来て頂き、ありがとうございます」
「あ、いえ……。マスターの淹れてくれる珈琲美味しいですし、お店の雰囲気だって最高だし、いつもクラシックが流れてて、私すごく落ち着くんです。ね、律子」
「だから私に振るなって」
律子は笑っている。でもその笑いは、とても優しいものに見えた。
「ありがとうございます。そう言って頂けると私も嬉しいです。お連れの方は、律子さんと……」
「あ、そうです。律子って言って私の親友でもあり、同士でもあるんですよ」
「というと、弁護士を目指されてるんですか」
「はい。はじめまして、川井律子といいます。
美佐から聞いてはいたんですけど、ほんとに雰囲気の良いお店ですね」
「ありがとうございます。何になさいますか」
「あ、マスターにお任せで。ね、律子もいいでしょ」
「うん」
「承知しました。またチョコをお付けしましょうか」
「はい。こないだのもとっても美味しかったです。あーでも、また違うのも食べてみたいな。いいですか」
「承知しました。お寛ぎください」
やっぱり今までとは違って見えるな。ニートさん、じゃなくって内田さんが言っていたように、常連さんの仲間入りができたせいかな。
「なに自分の似顔絵ばっかり見てるのよ」
「えー、だってやっぱり嬉しいじゃん」
「まーね。あんたのその気持ち分かる気がするよ。美佐が言ってた以上に良い感じのお店だもんね。私だって常連になりたいなって思ってるもん」
「でしょー。良い雰囲気だもんね。珈琲も美味しいし。チョコもすごく美味しいんだよ」
「それからそれから」
「何、それからって」
「とぼけないの。美佐の一番のお気に入りはマスターでしょっ。ねー図星でしょ」
「律子、何言ってるの。違うって」
「えーそうかなあ。そうは見えないけどなー」
「違います。いいから勉強しよ。明日テストなんだよ」
はあーびっくりした。そりゃあ少しはマスターのこと良いかな……とは思うけど。今はそんなこと考えている時じゃないし。今年こそは司法試験にパスしなきゃ。
「どうした美佐?」
「あ、ううん。なんでもないよ。さっ、勉強しよ」
やることは山積みなんだ。次から次へと新しいことが枝分かれして増えていくし。ただでさえ大変なのに、法律はどんどん改正されていく。
「そう言えばさ、新しい判例集は買った?」
「あ、うん。こないだゼミで言ってたやつでしょ。買ったよ。美佐まだ買ってないの?」
「えーん、給料入るまで買えないよ。だって次から次と買うもの出るんだもん」
「わかった、わかった。いいから泣かないの。今度見せてあげるから」
「あー律子さまあ。天の助けですうー」
「あーもう。今度は幼児言葉か」
「なんだか、楽しそうですね。楽しく勉強するのは良い事だと思いますよ」
マスターが目の前に来ていた。
「あっ、マスターいや、違うんですよ。これは……律子が」
「あ、美佐ずるい」
「仲が良いんですね」
「え。あ、はい。律子がいるから司法試験なんて私には縁もないようなことにチャレンジできてるんです」
「それは……私も一緒。美佐がいるから」
心の奥にあるものを、思わず宣言してしまった気恥ずかしさが急に湧き上がってきた。恥ずかしさで顔を覆いたくなるほど体中が火照ってくる。律子も同じ気持ちらしく、二人して下を向いてしまった。
「そんな、二人とも下を向かないでください。
お待たせしました」
カップとソーサーが擦れる音に、我に返って慌てて顔を上げた。そこにはマスターのとびっきりの笑顔があった。
「どうぞ。ごゆっくりと。あ、そうだ。美佐さん申し訳ないですけど、今度お時間があるときにでもテイスティングにお付き合いください」
「あっ、それって私だけのブレンドを探してくれるやつですか」
「はい。是非お付き合いください」
「はい、もちろんです。こちらこそ、よろしくお願いします」
私だけのブレンド。あー、なんて素晴らしい響き。早く私の味を見つけたい。そうしたらあのポートレートの下に飾ってもらえるんだ。
「美佐、どうしたの? 先に飲んじゃうよ」
「え、あ、ごめん。マスター、それじゃあ頂きます」
藍色で揃ったカップとソーサー。竹枝の持ち手が可愛いティースプーン。それに青磁の色が清々しい、ミルクの入った陶器。どれもが合わさってバランスを取っているようで美しく見える。
「あーほんとだ。美味しいね。うん。この珈琲美味しいよ」
「律子もう飲んでたの。早っ」
でも律子の言うとおり。ほんとうに美味しい珈琲なんだ。苦くもなく、酸っぱくもない。ううん。どの味も感じるんだけど、どれ一つでしゃばっていない。そうだ。このカップやソーサーと同じ。バランスが美しいんだ。
「うーー。私って常連!」
「げっ、美佐いきなり何言ってんの? 大丈夫」
「大丈夫。大丈夫」
「なに笑ってんのよー」
「へへえ」
「まったく何舞い上がってるんだか。だけどほんと、美味しいよ。優しい味だよね。このチョコもそうなの?」
ピアノ仕上げされた真四角のお皿に、二つの包み紙が乗っかっている。オレンジ色に縁取られた正方形の包み紙。その真ん中にはガレーと書いてある。
「ガレー? ううん。私も初めて。マスター、これってガレーって読むんですか」
「はい。ジャン・ガレーと言います」
「へー。人の名前みたいですね」
私は丁寧に包み紙を解いてみた。四角い板チョコは、ごく一般な物と比べると少し薄いような気がする。
「そうです。作り手の名前ですよ」
「へえーやっぱりそうなんだ。どんな味なんですか?」
「まずは、お召し上がりください」
私も、律子も、恐る恐る口へと運んだ。それは、美味しくないかもという恐れじゃなくて、マスターが出してくれたものだから美味しいに決まってるし、まだ味わったことのない美味を体験する嬉しさっていう意味のものだった。
「うわあ、おいしい!」
律子が感嘆の声をもらした。私も急いで食べてみる。ほんとだ、美味しい。今まで食べたことがあるどんなチョコレートよりも美味しい。
「ほんとだ、めちゃくちゃ美味しい」
「私も、初めて出会ったときは驚きましたよ。これが珈琲に良く合うんです」
マスターの言葉に、私も律子も、今度は珈琲と一緒に味わってみた。
「わー。すごく幸せな気分。マスターってすごいですね。こんな組み合わせを見つけちゃうなんて」
律子が興奮した口調でマスターに言った。私もそう思う。マスターってすごい。
「いえいえ、私がすごいんじゃないですよ。すごいのはジャンガレー。彼のチョコを一言で表すなら、私は『純粋』という言葉しか思い浮かびません」
「純粋?」
「はい。彼の一貫したこだわり。興味があれば、勉強の息抜きにでも調べてみたら面白いですよ」
「えーマスター教えてくれないんですか」
「はい。興味があればご自分で調べた方が、より美味しさも堪能できると思います」
「わかりました。今度調べてみます」
私は即座にそう答えていた。律子は私を見てニヤニヤ笑っていたけど。
「マスター、こんちは」
「あ、こんにちは。木本さん」
「いつものお願いね。お、あれ、なにちゃんだっけ? えっと」
「あ、こんにちは。美佐です」
「そうそう、美佐ちゃん。あっ、マスターいつものでお願い。あれ、もう言ったっけ」
「もう聞きましたよ。木本さん小説の方は進んでますか」
「えー、小説家なんですかあ。すごい」
「いやいや、売れない小説家ですから。もーマスター痛いこと聞くなあ。書けてるけど、まだまだ進み具合は雨模様ですよお」
「えーでもすごい、すごい。作家さんなんて」
「いやいやお嬢さん。惨めなもんですよ。売れない作家なんて。肩書きだけで、実情は無職のニートですから」
奥の席から、むくっと立ち上がる影が見えた。
「木本ちゃん悪かったなー、無職のニートで」
「げ、内田ちゃんいたんですかあ」
「ずーっといましたよ。どうせ暇人ですから」
「もーいじけないの。今そっち行くから。あ、マスター僕の珈琲はあっちね」
「承知しました」
「すみません。話の腰が折れてしまって」
「あっ、いえ」
「えーと……そうそう。私がこの板と出会って感じたのは、さりげない甘さ。それに絶妙に薄い板。この二点です。板に限って言えばチョコレートは薄さが最も大切だと思っています。でも薄過ぎてもいけない。舌の上に乗せ、溶けていく過程と、その中でとろけていく味。それが大事です。職人の良し悪しといいますか、味といいますか、それらは板から伝わるものだと思っています」
「やっぱり、マスターってすごい。ね、律子」
「うん。私もそう思います」
「ありがとうございます。それでは、ごゆっくりと」
私と律子は、しばらく珈琲と板チョコのコラボレーションを堪能した。そしてマスターに珈琲のおかわりを注文してから、明日のテストに向けて参考書を開いた。マスターが、私たちに気づかれないように店内に流れるクラシックの音量を下げてくれたのを、私は見逃さなかった。
隊長こと、坂下さん
「あそこも、もう駄目だ。いったい俺たち人間はなにをやりたいんだろう」
「隊長さん、お待たせしました。特性ブレンドです」
「マスターありがとう。でもさ、マスターまで隊長はやめてよ」
「いいじゃないですか。すごく合ってますよ。あれ、失礼な言い方でしたか」
「いやー全然そんなことはないけどさ。なんかこそばゆいよ」
隊長こと坂下進は頭を掻いた。
「でもどうしたんですか。人間が……どうとか言ってましたけど」
「うん。また環境破壊でね。いつも行ってる所なんだけどさ。今日もその帰り。撮り続けてた場所だったんだけどね……駄目になっちゃった」
「そうなんですかあ」
「うん。ダムだか何だか知らないけど、茶色くなった川を俺は撮れないよ。ほんと俺たち人間は何をやりたいんだろうね」
「そうですよね。私もそういうことは日々感じますけど、坂下さんは最前線で見たり聞いたりしてるんですものね」
「そうなんだよ。つくづく因果な商売だと思うよ。特に俺みたいな考えの人間にとってはさ」
店内に流れるピアノソナタは告別を伝えている。それは今の坂下の背中に妙に溶け込んでいく。クレッシェンドしていくベートーベンとは逆に、彼の両肩はデクレッシェンドしていくように見えた。
「坂下さん、冷めますよ」
「ああ、悪いねマスター」
「いいえ、今日はいつもより苦味を強くしておきましたから」
坂下は探るようにカップを傾けた。
「うん、ウマい。この苦味もいいねえ。シャキっとするよ。マスターは、ほんといつも思うけど、その時のその時で的確な洞察力を発揮するよね」
「そんなことはないですよ」
「いや、あるよ。どれだけ救われたか。たかが珈琲一杯だってのに。いや、これは失言。マスターごめん。そんなつもりで言ったんじゃないんだ」
坂下は慌てて訂正し、頭を掻いた。
「謝る事ないですよ。私も同じように思ってるんですから」
「えっ?」
「生意気なことを言うようですが、最近は何でも必要以上に付加価値を付け過ぎると思うんですよ」
「うん、同感」
「珈琲も然りです。あまりプレミアムばかりを強調してしまうと、それを受ける側だって何だか畏まらなければいけない雰囲気が出来上がってしまう。結果、味も感じることができない。ただそこへ行き、帰ってくるだけ。そしてそれがプレミアムだと無理やり自分を納得させる。そういう構図のものばかりだと坂下さんも思いませんか」
「あ、うん。そうだよ。確かにその通りだ」
「だから私は、たかが珈琲しか、お出ししていないんです。私の好きなようにね」
「うーん、そうだよなあ。マスターの言うとおりだよ。俺だってそうさ。たかが一枚の写真なんだよ。ましてや機材がこれだけ進歩した今の時代じゃあ、素人が撮っても同レベルの写真ができちゃうんだからね。露出がどうの、被写界震度がどうのって一生懸命やってた日が懐かしいよ。そういうのは今じゃ流行らないんだろうけどさ。もう俺たちプロにとってはさ、その瞬間にそこにいる、それだけになっちゃったんだよね」
坂下はポケットからハイライトを取り出し、マッチを擦って火をつけた。二度ほどふかしてから大きく吸い込む。煙草の先が溶岩のように赤オレンジ色に染まり、みるみる燃え尽き灰に変わっていく。
「坂下さん。お替りいかがですか」
「ああ、もらうよ。同じように苦いやつをね」
「承知しました」
豆を挽く音がリズムよく時間を刻む。外の喧騒とは裏腹に、ここではここだけの決まった時間が流れている。
坂下は二本目のハイライトを取り出すと、ため息の後に火をつけた。ほぼ同時にネルに湯が注がれてゆく。徐々に膨れ上がり、また萎んでいく気泡と、坂下のふかす煙草の明暗とが新しい時間を刻んでいった。
二杯目のカップがすっと前に出された。坂下はハイライトをもみ消してから、音を立てながら珈琲を啜った。
「うん。美味い」
坂下は満足気に頷いてカップを置いた。
「苦味はどうでしょうか」
「うん、良い苦味だよ」
「先ほどの一杯目と同じだったでしょうか」
「そうだなー。一杯目よりも……苦いかな。でもどうして」
「そうですか。私はこれでも同じように淹れようと務めているんですよ。でも同じ味にはならない。できないと言った方がいいかもしれません。それは焙煎の状態や、湿気、挽き方、淹れ方。それこそ様々な要因がそうさせるのですが、それ以前に、生豆の状態で違うんです。いいえ、もっと言うならば収穫された畑、土などにもよるんです。それら全てを踏まえて、それでも同じ味に仕上げようと思っています。でもそれは難しい。何故なら、万が一作り手がまったく同じ味に仕上げることができたとしても、それを飲むお客さん、同じ味を求めて二杯目を頼んでくださるお客さんの味覚が、一杯目のときは違っているからです」
「ああーなるほど!」
「はい。それと、まったく同じ味に仕上げることは叶わぬまでも、それに近づけることはできます。それは私が世界中の畑を周り、土に触れ、自分で焙煎し、試行錯誤したからだと思っています。ですから、同じキリマンジャロやブルーマウンテンでも、『セコイア』オリジナルなんです。それとこうも言えます。今のこの時間に坂下さんがいらして、注文してくれたからこそ、私はこの一杯を淹れられました。そしてこれが私の、今の特性ブレンドなんです」
店内には珍しく、ドヴォルザークが流れている。巨匠セルとクリーヴランド管弦楽団の境地が『セコイア』を包み込み、窓から差し込む夕影に舞う埃が、天使のように神々しく光っている。
「マスター。川が茶色いんだよ。空は青くて、山は新緑で、大地は土色なんだけどさ、川だけが茶色いんだ」
そう言うと、残った珈琲を飲み干した。
「うー、やっぱマスターの淹れた珈琲は美味いわ」
「ありがとうございます」
「さてと、やっぱ俺はプロだからな。マスターご馳走さま」
「お帰りで?」
「仕事。俺のホームグラウンドへね」
綾子さん
今日三杯目の特性キリマン。僕だけのブレンド。居心地の良い空間と座り心地の良い椅子。最高の音楽と程よく落ちた照明。
これだけ長い時間ここにいるのも初めてかもしれない。やっぱり部屋で書くよりも捗りが違うな。これでなんとか賞には間に合いそうだ。
「マスター! お陰で今度の賞に間に合いそうだよ」
「そうですか。それは良かった。楽しみですね」
「うん。まだ書き上がったわけじゃないから安心はできないけどさ。なんとか終わりが見えたよ。そうだ、まだ言ってなかったっけ。ここが舞台なんだよ」
「え、そうなんですか」
「うん。タイトルも『カフェdeセコイア』を使わせてもらっちゃったよ。まずかった?」
「いえ、そんなことはないですけど。小説の舞台になるようなことなんて何もありませんよ」
「そんなことないって」
「そうでしょうか」
「うん。まあ、完成まで一月くらい待っててよ。完成したらマスターに最初に見せるからさ」
「承知しました。それでは楽しみにしています」
「うん」
僕は再び意識を集中した。すらすらと書き進めるほどではないにしろ、確かな足取りには違いなかった。何しろ、ここの常連客はまだまだ多い。題材には事欠かないのだ。
次は誰を登場させよう。そうだ、シゲさんが面白いかもしれない。あの人はギャンブルで一人になってしまってもまだ懲りずに続けている。あそこまでいくと何だか見ていて逆に清々しい。
まてよ、そういう意味では道化の人がぴったりだ。あれ、あの人は名前なんて言ったっけ。歳は五十才後半……いや六十はいってるかもしれない。仕事には行かずにひたすら道化人……っていうのだろうか、ピエロみたいな格好で大道芸をやっていたはずだ。ここで見せてくれたピエロも板についていた。
「マスター、あの人名前なんて言うんだっけ。ほら、あのピエロを路上でやってるおじさん」「持田さんのことですか」
「あ、そうだそうだ。持田さんだ」
「持田さんが、どうかされたんですか」
「うん、いや、ここの常連の顔を思い出してたら名前が分からなくてさ。そうだ持田さんだった。ここで見たピエロもなかなか良かったよね」
「そうですね。持田さんの芸はプロだなと思いましたよ」
「ねーそうだったよね。あとさ、あの人は。ギャンブル好きのシゲさん。相変わらずなの」
「ああシゲさんですか。そうみたいですね」
「はは。やっぱりそうなんだ」
「ええ。勝った時にしかいらっしゃらないので、最近お見えにならないということは……」
「負けてんだ。だよなー。僕もこないだのダービーはぜんぜん駄目だったからね。ギャンブルは難しいよ」
「木本さんもやられるんですか」
「うん。たまーにね。でも競馬しかやらないかな。マスターは?」
「いいえ。私は一切やらないですね。どうも向いていないようです」
「へーそうなんだ」
「いらっしゃいませ」
「マスターごめんなさい。今日はこんな時間になっちゃった。平気?」
「いつでも大歓迎ですよ」
「ふうー、よかった」
「カウンターにしますか」
「ええ。そうするわ」
「いつもので?」
「ええ。いつもの」
マスターは手際よく準備を始める。流れる動作は空気を切り裂くことなく自然と調和している。話し込んでいた木本も、再び原稿用紙に向かっていた。
「今日はまいっちゃったわ」
「何かあったんですか」
「あったって言うかね、始まっちゃった。まったく何でって感じよ」
「お義母様ですか」
「そう。私の唯一の楽しみが、毎日お昼にここへ来て、何もかも忘れてゆっくり一時間美味しい珈琲を飲むことだったのに。それすらも奪われてしまいそう」
「そんなにお悪いのですか」
「うーん。悪いって言うかね。完全に痴呆が始まっちゃった。今日、朝起きたらいなくなってて。あ、ううん。もう見つかったから平気なんだけど。それで今日はこんな時間になっちゃったわけ」
「そうだったんですか。それは大変でしたね」「もう、マスターだけよ。そんな優しいこと言ってくれるのは。うちの人なんかさ、自分の母親じゃない。それなのに後は任せたって、仕事に行っちゃうのよ。信じられる。全部面倒なことは私一人に押し付けて。そのくせ外面だけはいいんだから。マスターに愚痴ばっかり言って申し訳ないけど……」
「いいえ、私でよければ。聞くだけでしたらいくらでも聞きますので」
「マスターはいつも優しいなあ。ねえマスター、どこかに逃避行しちゃわない」
「えっ、それは……」
「ふふ。冗談よ。冗談」
「綾子さん。そういう冗談は……」
「ごめんなさい。でもね、冗談でもいいから、こういうこと言ったりしてみないとやってられないのよね」
静かに旋律でピアノソナタが始まった。マスターは顔を赤らめながらカップに珈琲を注いでいる。
「お待たせしました。いつものモカブレンドです。これ飲んで元気だしてください」
「マスター、ありがと」
もうじき午後四時になろうとしていた。綾子は一瞬だけ時計に目をやると、すぐ顔を背けカップを手にした。それはまるで、小さな小さな自分だけの逃避行をしているかのように見えた。
「ふー、美味しい」
「ありがとうございます」
それっきり綾子は口を開かなかった。珈琲を啜り、カップを見つめ、また啜る。それだけを繰り返している。
「綾子さん、大丈夫ですか」
「あ、ええ大丈夫。でもびっくりした。時計の音が急に大きくなって……それに聞き入ってたから」
「失礼しました」
「ううん。平気です」
時計の針は午後四時十五分を回っていた。綾子の耳からこぼれ落ちた数本の髪の毛が、疲労の度合いを物語ってる。
「綾子さん、お替りはいかがですか」
マスターが時々かける声だけが、綾子を現実世界に繋ぎ止めているようだった。
「ええ、頂くわ」
「承知しました」
……。
「ねえマスター……この曲何ていうの?」
「はい。これはバックハウスという人が弾いているベートーベンのワルトシュタインという曲です」
「ふーん。本当なら軽快なリズムの素晴らしい曲に感じられるんでしょうね。でも今の私には駄目だわ。イライラとしたリズムにしか感じられない」
「そういう日もありますよ」
「ううん。そうじゃないの」
……。
「お義母さんの徘徊が始まって……自分で口に出して言っている通り、始まった、って思ったわ。でもそれは違うかもしれない」
……。
「こんなにイライラしてるんだもんね。きっと顔にも態度にも出てたんだわ。お義母さんはそんな私を見るのが嫌だったのかもしれなわ」
……。
「マスター」
「はい」
「お替りは、まだキャンセルできるかしら」
「ええ、もちろん」
「ありがとう。もうこれからは毎日お昼って訳にはいかないかもしれないけど、また充電しによらせてもらうわ」
「何時でも、お待ち申し上げております」
「マスター、今の人よく来るんだ?」
「ああ、木本さん。先ほどは話が途中切れになってしまって、申し訳ありません」
「あーそれはいいんだけどさ」
木本がカウンターまでやってきて身を乗り出した。
「ええ。もう長いこといらして頂いてます」
「そうなんだあ。まだまだ僕も知らない常連が多いんだなあ。初めて見たよ」
木本は、綾子が去った扉を見つめて呟いた。
「そうでしたか。いつもお昼頃に決まっていらしてたので」
「あー、だからか。お昼っていやー僕なんかは大抵まだ夢の中だからね。ははは。だけどさ、話を聞いてた訳じゃないけど、大変そうだね」
「そうですね。少し痩せられたようです。でも大丈夫ですよ」
「そうだよね。僕もそう感じたよ」
時計の針は午後五時を回ったところだった。『セコイア』の外では、自転車に乗った主婦たちが夕飯の買い物に忙しそうに行き来している。この中だけがそんな喧騒とは無縁の静けさと時間を刻んでいた。
「マスター、僕もそろそろ帰るよ」
「お帰りになりますか」
「うん」
一月後
「マスター、いいかな」
「木本さん。お久しぶりですね。どうぞ」
「ありがとう」
木本は無精髭でいっぱいだった。
「いやあ。こんなに朝早くから来たことなかったからさ、何時からやってるんだっけって心配だったよ」
「それはそれは。うちは朝は九時から開けてますよ」
「そうだったんだあ。じゃあもう少し早かったら外で待ってなきゃいけなかったな。よかったあ」
「でもどうかされてたんですか」
「いやあー、真剣にこいつと向き合ってただけ」
木本は、愛用のショルダーから原稿用紙の束を取り出して言った。
「完成されたんですか」
「うん。ほとんどね。最後はここで書かせてもらおうかと思ってさ。いいかな?」
「もちろんですよ。光栄です」
「よかったあ。じゃあ、いつもの奥の席借りるね」
「ご注文はいつもので?」
「うん。いつものちょうだい。久しぶりだから体が飢えちゃってるからさ」
「承知しました」
店内には小音量で美しく青きドナウが流れている。マスターの動きはそれに合わせるかのように軽やかだ。外からは小鳥たちの鳴き声が爽快さを運んでくる。
「木本さん、お待たせしました」
「ああマスター、ありがとう」
木本は原稿用紙と万年筆を脇へ寄せ、目の前にスペースを確保した。漂う珈琲の香りに、思わず鼻の穴が大きくなる。
「おー、久しぶりだあ。早速頂くよ」
「どうぞ」
「はー。これだあ。生き返るようだよ。うん、やっぱり美味い。改めて思うよ」
「ありがとうございます。あまり慌てて飲んで火傷などしないように」
「平気、平気」
「いらっしゃいませ、楠さん」
……。
「あれ、今日はラッキーはご一緒じゃないんですか」
振り返った老人の目は充血していた。マスターと木本は顔を見合わた。軽く会釈するとカウンターの中へマスターは入っていった。
「楠さん、どうかされたんですか」
……。
「楠木さん……」
「ああ、マスターすみませんの。何か言われましたか」
「いえ、どうかされたんですか」
……。
「楠木さん」
「とうとうワシ一人になってしまいましたわ」
老人の目にみるみる涙が溢れてくる。
「あれが逝き、あれがワシに残してくれた唯一の友が、今朝逝きましたわ」
「えっ、ラッキーが死んだんですか」
「はい。医者が言うには大往生だったらしいですわ」
「そうだったんですか……」
「きっと無理しとったんでしょ。ワシを一人でおいて行くのは忍びないと。必死に生きとったんだと思います」
……。
「最後までワシの手を探すんですわ。もう倒れてこれっぽっちも動けんというのに、鼻先で探すんですわ。それでワシが手を近づけてやると、こう、ぐりぐり押し付けてくるんです。その鼻先はからっからに乾いとりましてな。ざらざらになってるんですわ」
マスターはラッキー専用に作られた半畳ほどのスペースに目をやった。元気に、貪欲に音を立てながらミルクを飲む姿。満足して寝そべっている姿。どれもが、もう過去のものになってしまっていた。この半畳ほどのスペースの主はもう二度とこの場所に戻ることはない。
「楠さん……残念です」
「とうとう……ワシ一人ですわ」
楠木の嗚咽が響いた。老人のそれは、とても重々しい。落ち葉が何年も、何十年も積み重なったような重さだった。
「楠さん……」
……。
……。
「いや、これはお恥ずかしい限りですわ。しかも他のお客さんもおるというのに。大変失礼をしたしました」
「いえ、そんなことはないですよ。それにここは、お客さんの場所ですから」
「ありがとうございます。でもはやりワシはこれで帰りますわ。一言、お世話になったマスターにお礼を言いたかっただけですので」
老人は、ゆっくりとした動作で席を立った。
「楠木さん、もうおこしにならないおつもりですか」
老人は力なく笑い、軽く会釈した。
「楠木さん」
「マスター。ワシは近々、なんとか老人ホームに行くんですわ。うちの嫁が、それをさっき知らせてきよりました。ラッキーが死んだほんのあとです。ワシにはもう思い残すことは何一つないですわ」
再び会釈をすると、老人は驚くほどの速さで踵を返した。
「楠木さん!」
誰もが驚くほどの、マスターの声だった。
「楠木さん。一杯だけ。最後に一杯だけ私からおごらせてください」
老人は、少しの間考えたが、マスターが指すカウンター席に再び腰を下ろした。
「ありがとうございます」
マスターは、ネルで一杯の珈琲を作った。それはこの老人用の、いつも出している珈琲だった。
「楠木さん、どうぞ」
「マスターのこの味を飲むのも、今日で最後になりますな。それじゃあ、遠慮なく頂かせてもらいます」
「楠木さん。それは私の珈琲ではないですよ。それは楠木さんが自分の中でお作りになった味です」
「ワシが作った」
「はい、そうです。私が毎日楠木さんにお出ししているのは、オールドクロップです」
「ええ、それは聞いとりますが」
「はい。それは本来でしたらお店でお出しするつもりのなかった豆です。オールド豆の特徴は人間味や優しさ、何よりも寛げる枯れた味わいなどと言われる一方で、過去の産物で何の価値もない物とされています。恐らく、大多数の人が美味しくないと感じると思います。はじめは私もそうでした」
「不味いもの」
「はい。でもそうではないと思ったのです。ゆったりとした時間や落ち着いた気持ちの時に飲んでみると、これほど広がりのある深い味わいのものはないと感じたのです。それで自分用にと熟成をさせて置いた物なんです。もう五年になります」
「そんなに」
「はい。私が珈琲を作り続けているのも、何時の日か最高のオールドクロップを味わうためなんです。恐らく若い人は不味いと思う味です。ですが、年輪を重ねれば重ねるほど、遠くにある香味にたどり着くことができる。そんな珈琲だと私は思っています」
「遠くにある香味ですか」
「はい。だからまだまだ私には本当の美味しさまでは辿り着けてはいないんですけどね」
「そんな貴重なものをワシなどに」
「いいえ。貴重なものではありません。それを飲んで、美味しいと感じてくれた楠木さんの重ねてこられた年輪の方が大事なんです」
「私はよく覚えています。楠木さんが初めてこの『セコイア』を尋ねてくださった日の事。
ラッキーと連れ立って、こいつも入っていいかと聞かれた楠木さんのお顔」
「ワシの顔」
「ええ。そのお顔を見て、私は楠木さんにオールドクロップを飲んで頂きたいと、今日までお出ししたわけです」
「そうだったんですか。そういう思いのこもった味だったんですね。オールドクロップですか。これは婆さんに良い土産話ができましたわ」
「楠木さん……」
老人は最後の一杯を、大切に、抱えるようにして飲み干した。
「いやー、美味かったですわ。忘れません。マスター、ありがとう」
『セコイア』の扉を開け、会釈した老人は小さな笑顔を残し踵を返した。マスターはカウンターから飛び出し、路上に出て老人を探した。
彼の背中からは矍鑠たる老人の姿は消え去っていた。マスターは、その帰り行く背中に向かって深々と頭を下げた。
完
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